二月十五日は涅槃会です。お釈迦様がお亡くなりになった日です。
お釈迦様はお亡くなりになる直前に、集まってこられたお弟子様達に、最後のお示しを説かれました。そのお示しが仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)としてまとめられています。
この仏遺教経に「不妄念(ふもうねん)」という教えがあります。「妄念しない」念を忘れないということです。
「不妄念ある者は、諸々の煩悩の賊(ぞく)、則(すなわ)ち入ること能(あた)わず。」と説かれています。
「念を忘れない人は諸々の煩悩に振り回されない。」ということです。
念とはどういう意味でしょうか。辞書を引くと一般的には「思い」とか「気持」という意味になりますが、仏教では心の働きを意味します。
「念」という字は「今」という字の下に「心」と書きますように、刹那刹那(せつなせつな)の心の働きです。つまり時を止めることはできないこの世において、私たちは今しか生きられない。その今を大切しなさいというお示しなのです。
「汝ら常に当に念を摂(おさ)めて心(むね)に在(お)くべし」とも説かれています。おさめるという字には物事に摂する「摂」という字が充てられており、むねという字には「心」という字が充てられております。
今今の連続の人生の中で刹那刹那の自己に摂し、その自己を忘れずに心に置いておきなさい。ということでが、日常生活でこれはなかなか大変です。刹那刹那の自分の心と向き合いながら、お仕事をしたり買い物をしたりと、いったいどれが自分の心なのか分からなくなってしまいます。ですから私は、この不妄念の実践が坐禅であると思っています。坐禅を組んでおるときには、様々な自分の思いが尽きることなく浮かんできます。しかし、その様々な思いに振り回されることなく、ただ黙って坐っているだけなのです。
自らの意識とは関係なく、自然に刹那刹那の自己に摂し、また煩悩に振り回せることもない修行なのです。
皆様も是非一度坐禅を組んでみて下さい。
禅昌寺禅昌寺住職 横山泰賢
今年も新型コロナウイルスの感染拡大により例年行われている行事ができない、或いは行けないという状況が続いており残念に思います。
私たちの人生には、このように思い通りにならない、自分の期待通りにならない事が度々あります。そんな時、何としてでも自分の思い通りにしようともがいてみたり、それに代わる新たな期待や楽しみを想像してみたりと、私たちの心は直ぐに自分の欲求を満たそう満たそうという方向に働きます。
その心の働きが、時にはそれまで気づくことが出来なかった事に気づかせてくれたり、新たな自分を見出したりと、様々な可能性も含んでいます。しかし、方向が少しでも異なれば、感染を拡大させる原因にもなりかねないのです。他人ごとではなく、私たちがこの命を生きるということは、そういう危うさを常に抱えているということだと思います。
もともと私たちの命は自分で選んだわけではありません。この大宇宙の様々な条件が上手く重なり合って生まれてきた命です。親の思いもその条件の一つです。私たち人間だけではなく、全ての生命が同じように、様々な条件が重なり合って存在しているのですから、誰か一人の思いや、何か一つの条件で存在しているものなど無いのです。にも拘らず、私たちの心は自分の都合に適うように適うようにと働いてしまうのです。それは生存競争に打ち勝つために与えられた人間の習性であるのですが、行き過ぎると結果的に、人類が生きていく事を難しくしてしまいす。自然環境の破壊や天然資源の枯渇、地球の温暖化など、既にこの大宇宙から人類への警鐘は鳴らされています。そして、その源を突き詰めて行くと、欲求に振り回される人間の都合ということになります。その本質を忘れることなく、何度も何度も気付きながら、大宇宙に生かされている命を生きることが、仏様の道だと思います。
言遍に帝と書いて「諦める」という字は、元々仏教用語で「真理を明らかにする」という意味があります。いま新型ウイルスの脅威にさらされている私達に出来ることは、自分の都合を手放しにして、諦めることかも知れません。ウイルスも負けてはいません。次から次に新種を生み出しては生存競争に挑んできます。
禅昌寺住職 横山泰賢
今回は音楽のお話しです。私はアメリカで布教活動をしておりました時に、ジャズを聞くご縁を頂いたことがあります。
ジャズは、ピアノ・トランペット・ドラム・ベースなど色々な楽器の演奏者が、それぞれお互いの個性と特徴を尊重し合いながら、お互いの個性や特徴が活かされるように演奏されます。そして、一つの素晴らしい音楽を作り出すのです。誰か一人が自分だけを強調した演奏をしたら、それは音楽として一つにはなりません。そして、聞いている方も、演奏者の誰がどこでエゴ、即ち自我を出したかということを感じることが出来るのです。ジャズミュージシャンの才能は、その自我に酔いしれるか、それとも自我であると気づくかによって決まるようにも思います。よく「ジャズはどこで拍手していいか分からない」という事を聞きますが、バンドの全員が、互いを尊重し、皆が活かされ、一つになった時、観客は一番大きな拍手を送るのです。
このジャズから私たちは多くを学べると思います。
その一つは、人それぞれの個性や特徴が活かされるためには、他の個性や特徴を尊重しなければならないということ。
次に、それぞれの演奏者がお互いの個性や特徴をもって演奏し、なおかつ一つの素晴らしい音楽を生み出すには、その中心になるものが必要であるということ。ジャズにおいてその中心となるのは楽譜です。
個性の強い人達が集まって、様々な楽器を演奏するのですから、楽譜通りには行きません。右に行ったり左にそれたり、それがジャズの味わいとなって一つの素晴らしい楽曲となり、楽譜が有るお陰で、大きく道を外すことはないのです。
我々の人生におけるこの楽譜がお釈迦様の御教えだと思うのです。
禅昌泰賢
曹洞宗の御本山永平寺の御開山道元禅師様に、一人の年老いた尼僧様が仕えておりました。その方は、むかし身分のある御婦人であったようで、いまのご自分を卑しんで、何かといえば、人に対して「昔は身分のある婦人であった」と話され、周りの人にそのように思われたいと考えていたようです。
私達も、その様に人に良く思われたいという気持ちがあるものですが、道元禅師様は、「詮なき事」「何の役にもたたない、全くいらないことだ」、と示され、戒めておられます。
愚癡とは口に出していう言葉のことと思いがちですが、昔はその人の生き方を指していたようです。
漢和辞典を開いてみると、「禺(グ)」が、さるに似たナマケモノの形で、下に心ですから、「心の働きが鈍い」という意味を表すそうです。
ぐちの「癡」は、人が病で寝台にもたれる形を表し、「物事にうまく対応できない病」おろかの意味を表すそうです。
私たちは、自分の思い通りにならい時や、自分の都合に適わない事などがあると、ついつい愚痴を言ってしまいますが、言葉はそのままその人そのものですから、「愚痴なる人」にならぬよう、お互いに気を付けたいものです。
禅昌泰賢
フランスのロワール地方を訪れた時のことです。
あるワイナリーで初老の紳士と出会いました。
その方は永年ワイン造りに携わってこられたようで、私にワイン造りのお話を聞かせてくださいました。
そのお話の中で特に私を驚かせたのは、最先端のワイン造りについてのお話でした。
「最近アメリカなどでは、人工衛星から送られてくる気象観測データをコンピューターが計算し、雨量や温度を人工的に管理して、 毎年ある程度一定した高品質なワインを作ることが可能になっている」という事でした。
でもその技術が「伝統的なワインを味わう楽しみや喜びを失わせてしまうのではないか」と悲観的に話されたのです。
つまり、「何年のいつ頃、何処どこ地方で 適度の雨が降り、夏も暑かったから、その 地方のワインが美味しい」というような、伝統的なワインの楽しみ方が失われてしまうことを心配されていたのです。
日本でも桜の花が一年中咲いていたら花見をする人はいなくなるでしょう。
無常、常に無い、移り変わる季節や気候であるからこそ、私たちは花を愛でる喜びを味わえます。
永平寺を開かれた道元禅師様は、「本来の面目」と題して次のような句をお詠みになっておられます。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえてすずしかりけり」
この一句は、我々の思いとは裏腹に、大自然は誰にもコントロールされることなく動いているよと、大自然の人為を超えた真実を私たちに気づかせてくれます。
禅昌泰賢