思い通りにならない命を生きる
- 2022年01月9日
- 今月の法話
今年も新型コロナウイルスの感染拡大により例年行われている行事ができない、或いは行けないという状況が続いており残念に思います。
私たちの人生には、このように思い通りにならない、自分の期待通りにならない事が度々あります。そんな時、何としてでも自分の思い通りにしようともがいてみたり、それに代わる新たな期待や楽しみを想像してみたりと、私たちの心は直ぐに自分の欲求を満たそう満たそうという方向に働きます。
その心の働きが、時にはそれまで気づくことが出来なかった事に気づかせてくれたり、新たな自分を見出したりと、様々な可能性も含んでいます。しかし、方向が少しでも異なれば、感染を拡大させる原因にもなりかねないのです。他人ごとではなく、私たちがこの命を生きるということは、そういう危うさを常に抱えているということだと思います。
もともと私たちの命は自分で選んだわけではありません。この大宇宙の様々な条件が上手く重なり合って生まれてきた命です。親の思いもその条件の一つです。私たち人間だけではなく、全ての生命が同じように、様々な条件が重なり合って存在しているのですから、誰か一人の思いや、何か一つの条件で存在しているものなど無いのです。にも拘らず、私たちの心は自分の都合に適うように適うようにと働いてしまうのです。それは生存競争に打ち勝つために与えられた人間の習性であるのですが、行き過ぎると結果的に、人類が生きていく事を難しくしてしまいす。自然環境の破壊や天然資源の枯渇、地球の温暖化など、既にこの大宇宙から人類への警鐘は鳴らされています。そして、その源を突き詰めて行くと、欲求に振り回される人間の都合ということになります。その本質を忘れることなく、何度も何度も気付きながら、大宇宙に生かされている命を生きることが、仏様の道だと思います。
言遍に帝と書いて「諦める」という字は、元々仏教用語で「真理を明らかにする」という意味があります。いま新型ウイルスの脅威にさらされている私達に出来ることは、自分の都合を手放しにして、諦めることかも知れません。ウイルスも負けてはいません。次から次に新種を生み出しては生存競争に挑んできます。
禅昌寺住職 横山泰賢