2022年1月

思い通りにならない命を生きる


今年も新型コロナウイルスの感染拡大により例年行われている行事ができない、或いは行けないという状況が続いており残念に思います。  
 私たちの人生には、このように思い通りにならない、自分の期待通りにならない事が度々あります。そんな時、何としてでも自分の思い通りにしようともがいてみたり、それに代わる新たな期待や楽しみを想像してみたりと、私たちの心は直ぐに自分の欲求を満たそう満たそうという方向に働きます。                  
 その心の働きが、時にはそれまで気づくことが出来なかった事に気づかせてくれたり、新たな自分を見出したりと、様々な可能性も含んでいます。しかし、方向が少しでも異なれば、感染を拡大させる原因にもなりかねないのです。他人ごとではなく、私たちがこの命を生きるということは、そういう危うさを常に抱えているということだと思います。
 もともと私たちの命は自分で選んだわけではありません。この大宇宙の様々な条件が上手く重なり合って生まれてきた命です。親の思いもその条件の一つです。私たち人間だけではなく、全ての生命が同じように、様々な条件が重なり合って存在しているのですから、誰か一人の思いや、何か一つの条件で存在しているものなど無いのです。にも拘らず、私たちの心は自分の都合に適うように適うようにと働いてしまうのです。それは生存競争に打ち勝つために与えられた人間の習性であるのですが、行き過ぎると結果的に、人類が生きていく事を難しくしてしまいす。自然環境の破壊や天然資源の枯渇、地球の温暖化など、既にこの大宇宙から人類への警鐘は鳴らされています。そして、その源を突き詰めて行くと、欲求に振り回される人間の都合ということになります。その本質を忘れることなく、何度も何度も気付きながら、大宇宙に生かされている命を生きることが、仏様の道だと思います。
 言遍に帝と書いて「諦める」という字は、元々仏教用語で「真理を明らかにする」という意味があります。いま新型ウイルスの脅威にさらされている私達に出来ることは、自分の都合を手放しにして、諦めることかも知れません。ウイルスも負けてはいません。次から次に新種を生み出しては生存競争に挑んできます。
                               禅昌寺住職 横山泰賢

住職帰山のご挨拶


 平成二十八年五月に大本山永平寺国際部部長を拝命し、以来五年余ケ月に亘り国際参禅部長、吉祥閣副監院などを奉職し、昨年十一月六日を以って退任いたしました。この間、百名を超える修行僧と共に報恩行に専念できましたことは、誠に有難い学びの機会となりました。これ偏に、禅昌寺東堂はじめ、檀信徒の皆様並びに関係各位の御法愛と御協力の賜と衷心より感謝いたしております。
 退任式には禅昌寺檀信徒代表二十名の皆様にご本山へお迎えに来ていただき、大本山永平寺八十世南澤道人禅師様御導師により禅昌寺檀信徒各家のご先祖様ご供養を修行させていただきました。
 その後、大本山永平寺七十九世福山諦法禅師様の本葬儀が厳修され、公務の引継ぎなどもあり、御本山と広島を何度も往復し、年が明けて漸く落ち着いた次第です 。

 永平寺を開かれました高祖大師道元禅師様は                              

    峰の色 渓(たに)の響もみなながら
             わが釈迦牟尼の声と姿と                  
 
「目で見えるもの、耳から聞こえてくる響きすべてが、お釈迦様の声に聞こえ 姿に見える」

とお詠みになっておられます。私も選り好みすることなく、出会うところ全てがお釈迦様の御教えと心得て、皆様と共に更に辦(べん)道(どう)精進※して参りたいと存じます。何卒引き続き宜しくお願い申し上げます。

※ 辦(べん)道(どう)精進― 苦難と正しく向き合い、それを力に変え、まごころを 進めてゆく。(つまり修行のこと)