愚癡なる人
- 2018年05月15日
- 今月の法話
曹洞宗の御本山永平寺の御開山道元禅師様に、一人の年老いた尼僧様が仕えておりました。その方は、むかし身分のある御婦人であったようで、いまのご自分を卑しんで、何かといえば、人に対して「昔は身分のある婦人であった」と話され、周りの人にそのように思われたいと考えていたようです。
私達も、その様に人に良く思われたいという気持ちがあるものですが、道元禅師様は、「詮なき事」「何の役にもたたない、全くいらないことだ」、と示され、戒めておられます。
愚癡とは口に出していう言葉のことと思いがちですが、昔はその人の生き方を指していたようです。
漢和辞典を開いてみると、「禺(グ)」が、さるに似たナマケモノの形で、下に心ですから、「心の働きが鈍い」という意味を表すそうです。
ぐちの「癡」は、人が病で寝台にもたれる形を表し、「物事にうまく対応できない病」おろかの意味を表すそうです。
私たちは、自分の思い通りにならい時や、自分の都合に適わない事などがあると、ついつい愚痴を言ってしまいますが、言葉はそのままその人そのものですから、「愚痴なる人」にならぬよう、お互いに気を付けたいものです。
禅昌泰賢