今月の法話

[0018] 自己とは何ぞや (2007/07/10)


修証義 第六節
当に知るべし今生の我が身二つ無し三つ無し、
徒に邪見に墜ちて虚しく悪業を感得せん、
惜からざらめいや、悪を造りながら悪に非ずと思い、
悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて、
悪の報を感得せざるには非ず。


 直訳すれば「よくよく己を見つめてみなさい、この身は二度と得ることの出来ない、やり返しの出来ない一生ですよ。だから いたずらにまちがった考えや見方や甘い誘いに惹かれて、自分よがりの生き方に気づかないままに生きることは、もったいないではないか、いまの生き方の是非善悪の報いは必ずあるのだから、せっかくの人生を虚しく、疎かに過ごしてはなるまい。」と諭しておられます。

 世間では仏教が死後の世界を説いているかのように、誤解されていることを思うことがあります。確かに教典にはお釈迦様の出現も過去七仏の因縁が強調され、人間が現世に生かされる因縁の深さを強調され、死後の世界も多く述べてあります。

 こうした経論は読む人、聴く人、学ぶ人の受け止め方で異なりますし、解釈が真反対になることもあり得るのです。

 ですから宗祖道元禅師は仏道修行の用心は、正しい指導者に会うこと、正しい指導者とはどのようなことが求められるか、厳しくお示しになっています。「古人いわく、発心正しからざれば、万行空しく施す」分かりやすく申しますと「昔の人のいわれることに、自分よがりの間違った生き方をすると、人生全てのことが空しく終わる」と人生の用心を示しておられます。

 また指導者(自分自身の受け止め方)の正と邪によって変わることをつぎのようにいっておられます。

「機(人)は良材のごとく、師は工匠に似たり。たとえ良材といえども、良工を得ざれば、綺麗いまだあらわれず、たとえ曲木といえども、もし好手にあわば妙功忽ちあらわれん。」
 指導者(自分自身の受け止め方)の正邪に随って、何が真実か偽りかが分かれる。とお示しになっています。

 修証義第一章は仏教の基本的な見方や考え方を示されているのであります。

 私達は得難い命を授かりながら、我見我慢の生き方に気づかず一生を終わることは空しいことではないかと問われているのです。

 この第一章は三世と三時、善と悪の分別を如何に受け止めるかの大事を諭しておられると思うのです。私は三世を生きる生き方を学ばせていただきました。いまを生きる自分の生き方を思う思いも、自分の育った時代や環境によって異なります。その境遇を如何に受け止めて現世を生きる生き方に、来世(自分の死んで逝く世界ではありません)に生かされてゆくという生き方が問われていると考えるのです。そのように自分の生き方を自らに問いますと、今日一日という日が疎かに生きられない自分を思うのです。そのように思う思いが、私を励ましてくれ元気が出るのです。

 善と悪の考え方も、善が悪を生む結果となることも、悪が善を生む機縁となることもあることを、三世を透視して、自他平等の視点で考えなければならないことに気づきます。

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