今月の法話

[0001] 「ざんげ」 (2003/8/2)


私は禅昌寺に住持して今年42年になります。この間世の中は随分変わりました。特に物質的な繁栄とそれに反比例して国民の精神的荒廃が随所に顕著であることを嘆かずにはおれません。
 日本民族の祖先は、聖徳太子の十七条憲法によって具体的にお示しになって以来仏教信仰を拠り所とし高潔な精神を培うことを家庭教育の基本におき、生き方として礼節を重んじ、和をもって尊しとすることを伝承し、世界に誇る精神文化が構築されてきました。いま私は自らの半世紀を懺悔をこめて回想してみたいと思います。
 二十世紀後半の日本経済の発展は世界の人々から驚異と羨望の眼差しで見られて来ました。しかし一方で精神的荒廃に因る社会の醜態は世界に例を見ないとも言われます。
 この現状社会を生み出した責任はと問われると政治が悪い・教育が悪い・家庭の躾が悪い・因って社会が悪くなったと、他人事のような発言が多く聴かれます。しかし国民皆に、禅問答ではありませんが、「汝の責任は如何」と問われ、謙虚に自戒すれば「ありあり」と、無関心でいたではないか?人ごとに思いながら、自分大事に生きはしなかったか等々、自己責任を問うてみる必要があるように思います。
 聖徳太子の十七条憲法の第二条に「篤く三宝を敬え」とあり、条文に「まごころをこめて三宝をうやまえ。三宝とは仏法僧なり仏とは真実のさとり、法とは真実の理法、僧とは仏を敬い真実の理法を信ずる人々の集いのことである。それは生きとし生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国々が仰ぎ尊ぶ究極の規範である。いずれの時代でも、いかなる人でも、この理法を尊重しないということがあろうか。人間には極悪のものはまれである。教えられたならば、道理に従うものである。それゆえに、三宝にたよるのでなければ、よこしまな心や行いを何によって正しくすることができよう。」と現代語に訳せばこのような意味を示されています。
 しかしながら物は豊かになりましたが、国民皆がそうだとは言えませんが、現実は教育の荒廃は顕著であり人心は不安を募らせるばかりであります。
 そんな中でオカルト的宗教が蔓延し迷信に惑わされる人々が増えつつあることを見過ごすわけには行きません。
 聖徳太子が十七条憲法を制定された推古12年(西暦604年)に、既に千六百年後の今日を予見された如くに、「あらゆる国々・いかなる人でも」と申されている通り、今や仏教は特に禅仏教は欧米に深く根を下ろし、キリスト教の敬虔な信仰が培った宗教心が仏教の信仰を目覚めさせていると言うことが現実であります。
 又此処に「人間には極悪のものはまれである、教えられたならば、道理に従うものである。」と有ります、私もその通りだと思います。
 しかし現代の青少年問題を考えますと。家庭では功利的に生きることを教え(見せる)ても、人間の命を始め万物に対する敬虔な精神を養うことや、学校では知識を高める教育はしても、知識と尊厳が表裏である教育を失ったことが、「教えられたならば、道理に従うものである。」と言うことを失ったように思います。
 新世紀を迎えて現実に目覚めて「温故知新」を新たにすることが大事に思います。

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